IE9ピン留め
<  2005年 04月   >
  • ちーず
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ちーず


野生のカラスがなぜチーズの味を知っているのかふしぎです。生肉とかは結構慎重にというか、何度かくちばしをぱくぱくさせてから飲み込みますが、チーズだけは丸呑み、それもものすごいスピードなんです。

食欲があるので回復は早いとおもいますが、妻はきっと放してやろう、というだろうし、わたしはペットにして、連れ歩きたいとおもうだろうし、いや、お米が実るころに、すずめの大群を追っ払う狩猟カラスとして利用もしてみたいし、いや焼き鳥にしてくってもみたいし、

もうすこし、いじめについて考えてみて、いじめの意味なんかかんがえてみて、なんで日本人はちょうせんのひとをあんなにいじめられたのか、

わたしの子供の頃、もうそんなことは話としてしか知らないことだけど、ぎりぎり雰囲気としては感じられた、わたしより3年あとに生まれた人は、この雰囲気はもう体験できていないかもしれないとおもうと、

もしかしたら、わたしの年齢は最後の生き証人なのかもしれない。なんでそんなにひどくいじめられたのか、いや若いひとたちも映画とかで何度でもみることができるかもしれない、

いや、いじめの雰囲気のなかに生きたものにしかできないようなきがする、身についたいじめの血のようなものでしか自分のいじめの本能は洗えないような気がする。

だから、みにくくても、そして老人は引退しなければならないともおもうけど、やはりどこかの片隅では発信していたいとおもっているのかもしれない。
by roooo | 2005-04-11 21:56
カラス捕捉
プログ説明は全部うそです。カラスを偶然つかまえることができて、カラスの飼育の方法が知りたいとおもって、カラスの飼育で検索してみると、その99%が映画に関する記述であって、そしてなぜかカヒミの名前もでてくるので、よく読んでみると彼女がその主題歌をカバーして歌っているらしいので、そして主演のアナというおんなのこの服装がかわいいらしいので、いつか観てみたいし聴いてみたいとおもいながら、カラスの飼育に精を出そうとおもっています。

さておとなのカラスから飼ってもなついてくれるのでしょうか、いや、そんなことではないんです、緊急避難なんです。4,5日前からどうもいじめられているらしいカラスがいたのですが、はっきりそうだとは断定できなかったし、鳥の世界には軽いいじめは日常的なことだとおもうし、

すこし様子をみようとおもっていたのですが、わたしが風邪でまる4日ほど寝たきりになって、様子を伺えない間に、大変なことになっていて、もう2、3日捕獲が遅れたら死んでいただろうとおもうほどひどいとおもいました。

以下からすのいじめで検索したら同じような例がひとつだけありました。
http://www.j-gate.net/~ozawa-ch/patchwork/hanashi.htm
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2002年(平成14年)
7月19日と20日(カラスの…いじめ?)家からでかけようと、車で走り出したところ、近所の空き地にカラスが一羽倒れていました。最初は「死んだふり?」と思いましたが、そばに他のカラスが2羽、上空にいるのを見て、具合がわるいのかしら?と思うようになりました。ところが、丁度通り過ぎようとした時、その2羽が突然舞い降りてきて、横たわっているカラスをつつき始めたのです。---びっくり---何とか応戦しようとしていますが、既に勝負はあったと見えて、やられっぱなし!!……後ろ髪を引かれながらでかけましたが・・・

午後4時頃家に戻ると、ご近所のおばあちゃんとお孫さんが「カラスが死んでいる。」「目から血が出ている。」というのです。お昼に家の近くでよろよろしていたらしいですが、とうとう…。お二人は誰か人間のしわざ??と思っていらしたようでした。そこで、午前中のカラスのカラスいじめの話をしたところ。「かわいそう!カラスの間にもそんなことがあるんだね!」と納得。結局、土に埋めてあげたのはおばあちゃんでした。
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二羽が徹底的に攻撃するところと、目のまわりから血を出しているところもおなじです。

もうお一人おなじようないじめについて書いてました。
http://members.jcom.home.ne.jp/burari/essay/e424.html
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ときには仲間いじめもする。二羽で一羽を突っつき回す。不思議なことにいじめられているカラスは逃げようとはしない。じっと耐えている。群れを追われては生きていけないことを知っているのだろうか。このあたり、人間界のいじめと似ていなくもない。
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すずめなどにもいじめはしょっちゅうありますが、こんなにひどくない、鳩はかなりひどかった、だけど、あたまとしっぽの毛が抜かれているところまでだった、カラスは両方の目のまわりから血を出していた。

これをみて、じぶんがいじめをしていない、とおもうのは間違いだとおもった。そうでないと、いじめをしているひと、いじめをしているカラスを認めることができないとおもう。いじめをしている二羽のカラスにわたしは何ができるのか、

もし銃があれば撃ち殺すのか、いや二羽とも黒光りがして美しい、まぶしい。撃つのなら先ず、もっと長い間いじめをしてきて、それに気付いていない自分からですよね。
by roooo | 2005-04-10 21:01
感じない男かぜ
by roooo | 2005-04-06 22:23
感じない男えつけ
この前のカラスなんですが、今朝はえさの催促をしました。いちおう我が家を当面の棲家にしようという意思だけは確認できました。ただ用心深さはさすがカラスというか、完全に人間と対等というくらい、いろんなこと考えているとおもいます。

今までで、ひな鳥から、拾ったり、買ったりして仲良くなった鳥はたくさんいましたが、大人になった鳥となかよくなったのは、自分から鳥かごに入ってきて、それ以来ずっと鳥かごの扉あけっぱなしだったのに、5年間くらい鳥かごにとじこもりっぱなしだった自閉症インコくらいしかなかったとおもうんです。

いや、怪我をしたすずめとも仲良くなりました、でもこのすずめと一番仲良しになったのは、その自閉症インコだったとおもうので、その権利はインコに譲るべきかもしれません、やはり、大人の鳥との心の通じたとおもえる交流はそのインコとのことだったとおもいます。

まだなついているとはいえないとおもいます、カラスはすごく用心深いので、まだこころをひらいてくれていない可能性もあります。ただ私と妻がそのカラスのことを守ろうとしていることだけは理解してくれているとおもいます。

オスかメスかもわからないのですが、いちおうメスということにしておきます、ときどき彼女よりずっとおおきなカラスが、いじめに来ます。彼女は悲愴なかんじの声をだします。わたしか妻が飛び出します。いじめカラスは逃げていきます。彼女は5メートルほどだけ離れて、そこでありがとうと言ってくれているとおもいます。

もしかしたらいじめではないのかもしれません。オスカラスの求愛行動なのかもしれません。だけど、いつも鳩のペアがすごく仲良くしているのを見慣れているので、そんな暴力的な求愛行動があるなんて信じたくありません。カラスは人間と同じくらいに頭いいとおもうんです。

鳩やすずめなどとは、レベルが違うとおもいます。いや、そのりこうさが人間的だということだとおもうんです。だから、もしかして求愛行動なんかも、人間と同じように暴力的なのかもしれません。

だから、カラスはあまり好きではないんです。人間があまり好きではないのと同じような気持ちなのかもしれません。いや、別にインコとオウムがいちばん好きだ、とか言っているのではないつもりです。いや、やっぱり、インコ類は人間よりは、好きかもしれません。

いや、他の鳥のことあまり知らないし、ただ、すずめとムク鳥は、すごく勇敢だとはおもいます、命よりもチャレンジ心の方が大事だとおもっているからです。すずめは確かに、生きるためにえさを食べているだけでなくて、同じ餌を手に入れるのでも、そのために危険な目に会うような餌の入手方法の方が好きなところがあります。

もちろん最初は用心するのですが、難解な餌の入手方法に一度成功すると、簡単に食べ物が入手できるところと、難しいところと両方に食べ物があった場合、勇敢なすずめのグループは明らかに、難しいところを好んで、チャレンジしています。

これは、他のすずめとの競争心、もしくは、みてみてというような、誉めてほしいような感覚、もしくはその勇敢さで、仲間うちの序列をつけているのかもしれません。

ムクは、集団のときはギャングみたいで、にくたらしいとおもいますが、これも集団が去ったあと数羽のこったムクは、かなり知能的な行動をします、そしてやはり危険をかえりみないというか、いま自分がしたいことに夢中になっているとき、欲望は命を超えている、とおもわせてくれるような、行動をしてくれときは、尊敬してしまいます。

すずめもムクも人間よりはみていて、おもしろいとおもいます。そしてカラスなんですが、知恵がありすぎて、それもどちらかというと悪賢い感じが多いので、あまりすきではないのですが、下手に、感情をあらわすと、あきらかに見透かされるというか馬鹿にされてしまいます。

だから、カラスと接するとき、まるで京都人と接するように、ばかにされないことに最大の注意をはらいます。カラスとどれだけコミュニケーションしたか、ということよりも、こちらの弱味だけはみせないでおこう、というような気持ちになります。

だから、カラス対しては、こちらから心を開こうという気があまりしなかったんです。いやもちろん一目おいています。そして決してばかにしたりはしていません。最大の注意を払います。カラスがいると、別に対話したいともおもってないのですが、絶対カラスはこちらを観察しているという視線は感じます。

だから絶対にすきをみせないような気持ちになります。きらいというのでもないとおもうんです。なんかおかしい感情ですね、単純に言えばライバルなのかもしれません。わたしの弱点を見抜かれたくないというよう気持ちでしょうか、

いや、カラスがうっとおしいというか、いろんな知恵のまわり方が、俗っぽい人間的というか、なんというか、わたしがこれは俗な感情だなとおもうようなのを、読み取る能力に秀でてるいるというか、

なんというか、見ぬふりして、ちゃーんとひとの行動を見ているし、みるだけでなくて、その弱点まで見通している、というような、

いや、弱点がみえるのは仕方ないとおもうんです、それだけ知恵が働くわけだから、でも、それを見たということは、これは見えた自分がはずかしいことだとおもうんです。それをわきまえてなくて、見えることに平然としているような気がするので、カラスが嫌いだったとおもうんです。

あれ、そう、なのになぜ今回はカラスとなかよくしようとおもったか、ということなんです。このカラス、シャイなんです。もちろん見ぬ振りして、こちらのことよーく観察しているところは、普通のカラスと一緒なんですが、

そのことに後ろめたい気持ちをもっているんです。ここが大事だとおもうんです。わたしたちも、生まれつきの性格とか、育った環境とかで、どうしても自分でもすきでないような行動とってしまうとおもうんです。それを否定することはないとおもうんです、そうしか反応できなかったわけだから、ただ、居直ってはいけないとおもうんです。

ちょっとだけ、恥ずかしいという感覚をもっていてほしいとおもうんです。だから、このカラス観察していておもしろいんです。

まだ、こころ許してはいないとおもいます、いや、許してもらう必要なんかないとおもうんです。ただ、彼女が困っているときに、すこしだけ助けてあげたいとおもうんです。そして、その助けの行動にだけは、満足してくれているのは間違いないとおもうんです。

今まで別のカラスに迫られたとき、いつも尋常ではない声をだします、わたしたちどちらかが飛び出します。そのカラスは去って行きます。彼女はすこしだけ、おどろいて飛び退きますが、そのまま満足の表情をしてくれます。そして、今朝は初めて、あきらかに餌を催促する声を上げました。

もう、わたしたちを利用しようという気持ちにはなってくれているとおもいます、いや、もしかしら、わたしたちもう信用してくれているのかもしれません。ただ、そんなに簡単に人間を信じることが、間違いだとおもっているのかもしれません。だとしたら、それは其のとおりだとおもうんです。

人間と人間、人間とカラスは、にたような関係であり、信じあえないという前提においてしか、信じてはならないというような機がするんです。

そう、今日書こうとおもったこと、昨日寝る前にドライでいって、そのまま寝たのですが、今朝確認したところ、無色透明の液体がかなり漏れていました。これは珍しいことではないんです、ドライの典型な漏れる液体なんですが、

何なのかはわかりませんが、精液とはちがいます、おしっこでもないです、射精の前に先走りで出る液体とも違います。非常にピュアな液体です。精液の特有のにおいはまったくありません、粘性もありません、ただ、乾燥しにくい種類の液体です。だからおしっことも違います。先走りの液は、乾燥すると、すこし固形化するので、それとも違います。さわやかで、純粋な液体です。
by roooo | 2005-04-05 22:04
感じない男とらっく
今日もNHKの夜7時のニュースなんですが、仙台でトラックを暴走させてたくさんのひとをひき殺したひとがいるのですが、彼の気持ちわからないのだけど、なんかわかるかもしれないとおもっていたのですが、

やはりわたしと共通点ありました。今日のニュースのタイトルに”死ぬ前にすきなトラックに乗りたかった”とありました。わたしと同じだとおもいました。わたしもしにそうだ、ということがわかったとき、というかそれから2ヶ月くらい後だつたとおもうんですが、トラック買ったんです。

もちろん中古だし、すごく安いトラックなんですが、これ、まともな心理では絶対そんなことしなかったとおもうんです。いろいろ理由は付けたんです。その理由に自分も納得していたとおもうんです。でも、これは明らかに衝動だったとおもうんです。

いや、トラックはすきだったんです。学生の時はアルバイトで、トラックの運転手して、東京まで送風機を10トン車で運んでいました。一往復すると2万円くれたので、片道12時間くらいだったとおもうけど、35年前大卒の初任給6,7万だったとおもうから、いいアルバイトだったんです。

ま、それは昔のことだし、直接は関係ないとおもうんです。今回、死ぬとわかったとき、なぜトラックが欲しくなったか、ということなんですが、これが今も分かってないんです。だから、仙台の彼の心理が、なんとなくわかるような気がするんです。

わたしの仕事は大学卒業後ずっとコンピュータだったし、言ってみれば、鉛筆よりも重いものもったことなかったんです。最初の頃はプログラムをコーディング用紙というカラム付きの用紙に鉛筆で書いて、それをキーパンチャーにカードとか、磁気テープに入力してもらっていたので、鉛筆だこはできましたが、パソコンで自分で入力できるようになって、筆だこは消えてしまいました。

いや、その鉛筆より重いものをもたなかったことの反動だとはおもうんですが、突然、35年前がフラッシュバックして、どうしても大型トラックが欲しくなったんです。いや、普通に生きていたら、そんなばかなこと考えられないですよね。第一、買ってどこに置くのか、ということですよね、

いや、まず買ってしまったんです。買っても置くところないから、あ、そのトラックは運送会社が業務縮小するので、余剰トラックを売りに出していたのですが、買ったけどおくところ無いといったら、とりあえずその会社の所有している空き地に置かせてくれる、と言ってくれて、

それから、自分ちのたんぼにトラックが駐車できるような進入路を作って、もちろん近所のひとも私がトラックを所有する理由なんかだれも思いつかないから、どなたかのトラックの駐車場所としてわたしのたんぼを貸しているのだとおもってくれているので、

わたしも、この目的もなく大型トラック、それもクレーン付きという代物を買ってしまったという、説明不能な衝動を、どう説明したらいいのか、自分でもわからなかったので、当分はそういうことにしていたのですが、

いや、それからもう一年半もたっているのですが、まだまともな用途ではほとんど使ってないのですが、わたしの気持ちとしては、もちろんトラックをもつことが必要だという気持ちは絶対的なものであって、いまだれにも説明できないのだけど、どうしても、いや、きっと必要なんだとおもっているんです。

いや、どうでもいいような理由はいっぱいあるのですが、本当にはなぜトラックを買ったか、ということはまだ分かってないんです。

いや、もしかしたらわたしが、トラックで、アーケード街を暴走して、そして火をつけて死のうとおもっていたのかもしれないわけです。彼がわたしの無意識の衝動を先に実行してくれたので、わたしがそれをしなくて済んだのかもしれないわけです。

いや、わたしはそんなことはしなかったとおもいます。そのような衝動は感じないとおもいます。でも、わたしの死と、トラックがなんらかで結びついているかもしれない、とはおもうんです。大型トラックだから、毎年車検費用だけでもばかにならないので、ただ衝動で買っただけなら、今、冷静になって、売却すればいいじゃないか、とおもうんですが、

やはりわたしにはトラックが必要なんです。総重量9.5トンという大型トラックが必要なんです。いや、そんなことはないとはおもっているんです、でも、このトラックはわたしが求めたものではないんです。死を意識したとき、トラックのほうから私に近づいてきたとおもうんです。だから、わたしはいま具体的な目的はないのですが、これは所有していようとおもっているんです。

これは、わたしの現状の説明にしかなってないですよね。彼が死ぬ前にすきなトラックに乗りたかった、そしてレンタカーを借りた、

たぶん、トラックの優越感だとおもうんです。ちっぽけな個人なんですが、トラックに乗ったとき、自分がトラックというからだを着るような気持ちになるんです。トラックとかバスとかは運転の感覚がすこし乗用車とはちがうんです。クラッチ、ミッションを通じて、自分の足と、タイヤが繋がっているような感覚があるんです、トラックのおおきなタイヤは自分の足なんです、

わたしには、女性の衣装を着用したいという感覚と同時に、トラックを運転する、制御する、トラックという、自分の200倍もの重量の体を着たいというきもちもあるのだろうか、これはマッチョなおとこになりたいという願望とおなじようなものなのか、

小さな道を通るとき、他の車によけてもらったり、迷惑かけるので、もちろん恐縮して運転している気持ちはあるのですが、どうしても、どこかに優越感の感覚はある、隠し切れないとおもうんです。

わたしは強くない自分を着てみたいのか、いや違う、おんなのこの体を着てみたいのではない、女性の衣装を着てみたいだけなんだ、トラックはおおきな衣装を着てみたいわけではない、おおきなからだを着てみたいわけだとおもう。

強い自分はすきなんだとおもう、ただトラックを所有したいのではない、トラックというおおきなものと同化したいのだとおもう、女性の衣装を身につけたとき、か弱い自分でありたいのではないとおもう、強さを誇らなくてもいいような自分になりたいのかもしれない。

うーん、今日の結論、強いということは優越感と、どこかで繋がっている、その優越感、差別意識の否定はどこまで可能なんだろう、というのがわたしのテーマだとおもっているのですが、自ら着た強い体で、自分をふみつぶすことしか、、。

今日は漏のイメージでいこうとおもって、コンディションも整えていたのですが、7時のニュースをみて、浪になってしまったかもしれません。
by roooo | 2005-04-04 21:44
感じない男じかん
また時間のトリックというか、時間のうそが成立してしまいました。法王は昨日の私の投稿の9分後に死にました。わたしが彼の回復を祈らなかったので、憤慨して死んでしまったのかもしれない。などと、また自分勝手なたのしみかたをしているのですが、

実際は時差というものがあるので8時間くらい後だとおもうんです。レスリーもそうなんです、げーつさんの気をひきたいとおもったのでしょう、あえて時差という現実を無視したんです。おかげで、コメントまで頂いて、そしてもしかしてこれ、は、げ一つさんがわたしの投稿まだ毎日読んでくれているということなのか、と感激してしまって、

急いでコメントをお返ししなければとおもったのですが、書きたかったことの未だ半分くらいしか書いてないのに、なにがどうなったか分からないのに送信されてしまって、そのどこまで書いていたのかも、わからなかった自分の投稿よんでみると、完全に無意識なんですが、

げーつさんのコメントは、”無意識のしわざか”、というので終わっていたのですが、わたしのは自分ではもっと書くつもりで、書いていた文章が、かってに投稿されてしまったのに、それはまるでごろあわせであるかのように、”無意識の親しみ感か”、というところで終わっていたんです。

これこそ本当に無意識の連携だとおもいました。本当は無意識の親しみ感がどうのこうのと書いて、そして、はげひとつ、についてもなんかコメントしようとおもっていたのに、きっと無意識がぶちきってくれたのだな、おもいました。

いや、時差の話でしたよね。でも、これはこれでいいとおもうんです。いまわたしたちは、リアルタイムに生きているというか、リアルタイムに情報に接することができるので、この違いは実感として違いがわかります。しかし、すこし前までは、世界の情報なんかはそんなに早く伝わることはなかっただろうし、そして、数日前のできごととか、もっとたくさんの、それは過去の事実というふうなとらえかたをした方がわかりやすいようなできごとについて考えるときには、時差という観念で、それをとらえることはそんなにないとおもうんです。

例えばわたしの妻の誕生日は釈迦の誕生日の前日である、などという時には、だれも時差のことなど考えないですよね。西洋人のだれだれさんと誕生日がおなじだということを喜んでいる方も、時差を考慮すると半分くらいの人は一日ずれてしまいますよね。

そして昨日の今日だから、この時差の8時間ということが気になるのであって、レスリーのときもわたしは、叔父さんの死と1分の差であるとおもいこみたかったけど、現実には同じ時を共有していたか、というふうに考えたとき、これはしていなかったとおもったんです。

でも、わたしは自分の都合のようように考えたんです。これを回想としてというか、過去のこととして考えられるようになったとき、レスリーも叔父さんも、夕方の7時になくなったというふうに回想できたほうが、ずっと本当らしいとおもえるんじゃないかな、とおもったんです。

叔父さんは日本という国で4月1日の夕方の7時、レスリーは彼の国で4月1日の夕方の7時に命が絶えた。これも時間の共有であるといって全然もんだいないとおもうんです。

わたしは日本という国で、4月2日の夜の9時30分頃に死に行く彼の回復を願わないと考えた、法王は彼の国で4月2日の夜の9時30分過ぎになくなられた。もちろんただそれだけのことなんですが、

いや、ごめんなさい、けいさんのHP読むたびに、この言葉がいつも気になっていたんです。”遠くにいるからってそんなに淋しがることないよ。よく考えてみたらさ、同じ時間をすごしてるんだよ”

この時間には時差があるのかないのか、ということなんです。わたしが朝の8時頃に目覚めてけいさんのHPをチェックすると、おやすみになる前のけいさんの書き込みを読むことができるわけです。そしてその30分後には、出勤前のお急ぎげーつさんの書き込みを読むことができるわけなんです。

こちらは朝の8時なんですが、けいさんの文章は朝の8時の文章だとはおもわないです。一日のおわりの頃の言葉だとおもいます。そしてわたしはまだ半分ねぼけているのですが、けーつさんの言葉はもう、半分会社モードで自分をふるいたたせようとする文章だとおもうんです。

いや、同じ時間をすごしているにしては、そのとき、わたしはまだ、ねぼけているだけだけど、同じ時間とおもうとき、わたしはけいさんのきもち。けーつさんのきもちをかんじようと、その場所のその時間とその状況を読み取ろうとしているような気がするんです。

だから、どうということもないですよね、いや、ネットではリアルタイムな時間でなくて、おもいをはせるかなたの時間が、同じ時間なのかもしれないですね。

とってつけたような結論ですが、感じないおとこさんの、射精直後の虚無感、きっと自分だけの時間に戻ってしまうような感じかもしれないです。自分の時間だけで生きて行くというのは、それは一面の現実でもあるとおもいますが、

いや、自分だけの時間にもいろいろな自分があって、それにおもいがめぐらされているとき、それは自分だけだけど、静止した時間ではなくて、というか、自分のなかで自分の時間をとらえきれないものとして、おっかけて読みとろうとしているとき、それはまだ、かんじていると幻想できているのかもしれないけど、

今の自分しか感じ取れない瞬間、リアルタイムの時間の感覚しかない瞬間、それが感じない瞬間。いや、そういう捉え方もあってもいいな、とおもっただけなんですが、

だとしたら、一昨日わたしが感じた瞬間、わたしが自分のおんなを受け取った瞬間、これも今の自分しか感じ取れない瞬間だったとおもうし、そして記憶にならないリアルタイムの時間の感覚しかない瞬間、だから、これも感じるを通り越して、感じない瞬間であったような、、。

なぜ、そこにこだわるのか、自分の異性装のときの感覚が感動的というか、衝撃的というか、戦慄的というか、ようするに尋常ではない感覚なんだけど、感じるということばでは、けっしてカバーできない感覚であるとおもうんです。あえていえば感じないという言葉しかあてはまらないような気がするんです。
by roooo | 2005-04-03 21:50
感じない男かいふく
NHKの夜7時のニュースでローマ法王が死にそうだといっていました。世界各地の祈りの映像が映されていましたが、字幕はロシアからの映像のときも、中国からの時も、他にもあったとおもいますが、祈りの映像のときの字幕がどれも”回復の祈り”となっていました。

死を前にしての祈りは、回復の祈りしかないのでしょうか、これは世界共通の人間の感情なのでしょうか。いや、私は一度も祈った経験がないので、祈りについて意見とか、感想とか書くこと自体が間違いなのかもしれません、いや、祈ったことはないですが、死に直面しているひとにはたくさん立ち会った経験はあるし、祈りはしなかったけど、感じたことはいっぱいあったけど、

彼はもう、90歳が近いのじゃなかったですかね、何歳になっても死んではいけないのでしょうか。いや、死に直面しているひとについて祈るということは、回復を祈るということだというのは常識なのでしょうか、わたしが知らないだけなのでしょうか。

昨日はわたしの叔父さんの命日で、そしてレスリーという俳優さんの命日で、その二人の死亡時刻は、レスリーが午後7時で、叔父さんが午後7時1分だった、ということが偶然とはいえ、印象的だなとおもったことが記憶に残っているのですが、あ、レスリーという俳優一度もみたことないんです、げーつさんがだいすきな俳優さんらしいので、きっといい方だったのだろうとおもっているだけなんですが、

いや、レスリーは早く死にすぎたのかもしれませんが、わたしの叔父さんが死んだのは今の法王とおなじくらいの年齢だったとおもうんですが、わたしが最後に見舞ったのは亡くなる日の、3日くらい前だったとおもいますが、本人も完全に覚悟しているとおもえたし、わたしも回復するなどとまったくおもわなかったし、

状態はかなり苦しそうだったけど、これは死に向かうくるしみだとおもったし、その苦しみはひつようなくるしみだというような気さえしたし、わたしの気持ちとしては、回復の願いなんてまったくないだけでなくて、彼の苦しみにさえ、楽にしてあげたいとか、かわいそうにとかおもわなかった、

いや、本当に彼は何事にも自分の考えを持っていて、いや自分勝手なところはあったかもしれないけど、だから人には迷惑もかけたかもしれないけど、彼は彼の人生を生きてきたとおもっていたから、彼は今死向かっているのだろうけと、わたしたちまわりの者が同情したり、悲しんだりすることが似合わないとおもったから、

苦しんでいる彼を、つめたく突き放していた、という表現がいいのかどうかわからないけど、彼の病室にいて、かれが一人苦しんでいて、その苦しみ方が、全然同情をそそるような苦しみ方ではなかったので、彼は本当に苦しいのだろうとはおもったけど、

わたしが、その苦しみに情けをかけたり、声をかけたり、つまり寄り添う必要みたいなのを感じなかったんです。

いや、他にもたくさんの人の死には対面しましたが、いつもそうだというのではないんです。この人は死に際して、手を握ってあげたり、体をさすってあげたり、強くにぎってあげたり、そういうほうがいいかな、とおもうこともありました。そういうこともしました。

わたしも、どちらかというとさびしがりやだから、最後に妻に手を握ってもらってしにたい、などとおもったこともありましたが、いま現在は、死は自分だけで向かうものだろうとおもっています。

もしわたしの死に面して、家族などが病室に立ち会ってくれていたとして、祈るということを私としてはイメージできないので、この言葉を使うのは適切ではないかもしれませんが、

わたしは、回復を祈って欲しくもないし、安らかな死を願って欲しいともおもわないんです。ただ、わたしの死に様、死に方を見届けて欲しいとはおもうんです。わたしの死の受容というのですか、死にどうむかって行ったか、というのをみてもらうことは、うれしいかもしれないとおもいます。

ま、法王のことはどうでもいいんですが、わたしが、そのレスリーの一分後に死んだおじさんの死に対して、なんかすごく、冷淡だったな、とおもったことがすごく記憶に残っていたので、そして、その冷淡さこそが、彼をというかそのおじさんを一番評価していることなんだな、と今もおもっているから、そして法王がしにそうだ、というニュースが午後7時のニュースだったから、

そしてもう一つ、法王に限らないけど、身近なところではお寺の住職なんかでもなんですが、死でもってその職から退くということについてなんですが、わたしは、すこし前に書いた福祉施設の園長さんの時にもおもったのだけど、自分の引き時を自分できめられない人というのを、評価できないとおもっているんです。

この法王がどんなに立派な人なのかはしらないですが、そしてそれが、いままでの継承されてきた事実であったというか、歴史であり、制度であったのかもしれないですが、だからということでそれに疑問をもたないで、自ら引退の時期を決められないひと、なんでしょう、彼は、というのが、わたしの正直な感想です。

きっとこのような不謹慎な感覚をもっているから、もう死ぬことがわかっている人に対して、回復の祈りをするという人の気持ちが、理解できないのだとおもう。
by roooo | 2005-04-02 21:28
関しない男からす
この2、3日すこし元気のないカラスがうちの庭に住みついて、もちろん近づくと5メートルくらいの距離までは逃げるのだけど、それ以上は逃げない、という感じなので、そして元気ないくせに、すずめとか鳩に対しては、一人前に威嚇的な態度をとって、すずめ、はとのためにいつもくず米をまいておいてやっているのですが、それを食べに来るすずめたちを追っ払うので、いやなやつではあるのですが、そのカラスも、これもうちの納屋のどこかで生まれたらしい白黒ののら猫に、狙われたりもしているわけなんですが、

そのカラスよく観察すると、ちょっとはねを傷めているようにもあるので、そしてカラスは穀類を喰っているだけでは元気になりそうもないとおもったので、鶏肉をたくさんテラスに置いてやったら全部食べてしまって、そのおかげでどうも元気が出たみたいで、いなくなってしまいました。

でも、そのカラス、その2、3日前に見つけたときは、二羽のカップルだったんです。いつもカラスなんかは見慣れているのであまり気にもとめないのですが、その日はなんかうるさいんです、あきらかに会話している二羽なんですが、それがいつまでもずっとお話し続けているみたいなんです。カラスの鳴き声はよくしっているのですが、カラスの会話というか、お話の声はそんなに聴いたことなかったので、

そして、なんか意味がわかるようなきがして、感じとしては、外国語で話しているくらいに、もちろん具体的には何も理解できないのですが、気持ちはなんとなくわかるような気がして、これから巣づくりをする場所について、話しているのかな、とかもおもったけど、そういうのでなくて、なんというか、すごくテンションの高い会話だな、とかおもっていたんです。

どちらにしても、すずめは雨どいに、鳩は庭のやまももの木や、メタセコイヤの木に、毎年巣をつくっていますが、カラスが庭に巣をつくったのはみたことないので、これはちょっと楽しみだな、とおもっていたのです。その日はすごく興奮した感じの二羽だったのですが、翌日からは一羽しかみかけなくなって、そしてその一羽が、ちょっと怪我をしているのかもしれない、

だとしたら、もう一羽はどうしたのだ、ということなんですよね。手負いのパートナーを見捨ててどこかに行ってしまったということなのか、だったらあの時のテンションの高い会話はなになんだったのか、手負いのパートナーの死を予感して、お別れのセレモニーであったのかもしれない、などとおもったんです。

それでおもいだしたのは、たしか去年に聞いた話だったとおもうんですが、私の叔父さんが以前に養鶏場を経営していた時のことなんですが、カラスがいたずらばっかりするので、見せしめに一羽を殺したらしいんです、もう40年も前のことらしいのですが、そうしたら、その後三日三晩カラスの大群がその養鶏場のまわりに集合して、そしてずっと居続けて、ずっと鳴き続けて、それはそれはこわかった、ということを話してくれました。

ほんの40年前には、そんなに情の厚いカラスだったのに、現代の文明に犯された、いまのカラスたちは、パートナーが怪我をして死ぬかもしれないというのに、たった一日だけのお別れの儀式でもう終わりなんだろうか、などと考えたりしました。

そういえば、ツバメなんかもそうなんです、わたしの子供の頃のツバメはみんな立派に子育てして、そしてまた親子ともに飛び立っていったとおもうのですが、今のツバメは卵までは産むのですが、途中で子育てを放棄してしてしまう、ことがよくあります。もちろん、ツバメにとって厳しい環境になっているということが第一原因だとはおもうのですが、自分たちの快楽のことしかかんがえなくなったのかなとも、おもうんです。

そう、昨日のテーマなんですが、ちょっといまは、それについて考えるような気分ではないのですが、昨日わたしが、いいたかったこと、というかおもっていること、というのは多分わたしにとって、最重要課題であるというか、わたしが、否定したくても否定しきれない、自分にある差別の感情、それからのがれられない自分にたいしての、いらだちみたいなものだとおもうんです。

あまり愉快ではない話だとおもうし、こんなこと話すこと自体が善人ぶっているだけみたいな気はするのですが、わたしは一生この感情からは、理性では逃げようとしつづけるとおもうけど、逃げ切れない本能をもっているとおもうんです。

わたしはどこかで、自分の優位性を保とうとしているとおもうんです。それがなにか、という違いだけだとおもうんです。いまさっきまで、母親と親戚のお金持ちの家庭のことを話していて、そしてわたしは貧乏で、だから自分がみじめだとはおもわなかったですが、その話を聞いていて、一度も自分の優位性の感覚がゆらぐことがなかったんです。

いまなんとなく、ストッキング穿いて、スカート穿いて、そして鏡のまえで、ただ一人の自分になってみて、この瞬間のしあわせに勝るものはなにもないとおもったんです。これは完璧に純粋な感覚なんです。

自分がうつくしいとおもう。どんなきれいな人のスカート姿みせてもらうよりも、自分のスカート姿がきれいだとおもう。究極のナルシストなのかもしれない。いろんなポーズをとってみる、シルエットだけだけど、本当にうつくしいとおもう、うつくしいと思うポーズを自分でとって、自分が満足するまで、みつめて、そして次のポーズを試してみて、

いまの瞬間において、お金もいらない、家族もいらない、そして多分最愛の妻さえもいらないとおもう、自分が、というかいま鏡に映っている、本当の自分ではないかもしれない、自分という私によって想像し創造された、像が最高にうつくしいとおもう。

その美しいとおもえる、セクシーとおもえる最高のポーズを自分の満足する時間持続させ、そして次のポーズへ移って、それの繰り返し、厭きることなく。

なにをしているのだろう、自分を愛でているのか、いやその対象は自分ではないのかもしれない、自分が鏡にみているのは、人格としての自分ではない、ただの映像というか、シルエットというか、これはグラビア写真とおなし感覚かもしれない。それは鮮明であって鮮明ではない。もちろん、完璧にきれいだとおもっている。ピンぼけでもない、

だけど接近したうつくしさではない、確実に距離のある美しさである。近づいて、つかみとることもできない、においが嗅ぎ取れる程近づくこともできない、完全に美しいものだけど、絶対手を伸ばして届く距離にはいない。永遠の完璧に美だとおもう。そういって、そう言った自分のことがなにも恥ずかしくない、それほど美しいとおもう。

自分には絶対に手が届かない、自分自身の美とでも言えばいいのかもしれない。この美を感じているなかで、命の時間の感覚は完全に消えてしまう。もうこれ以上なにも必要ない、命の継続の意味もない。これ以上の美はないのだから。

だったら、今日、そして今からのわたしの生命の時間にはなにの意味があるのか、もしあるとすれば、このまま自分の姿を永遠に観続けることだけかもしれない。

いや、この禁断の快を隠し持って、そしてつまらない時間をすごすことが生きるということなのだろうか。

などと、こころから感じる瞬間、すなわち、その時が自分の優位性を常に保持しつづけなければならないように、宿命付けられている、わたし自身の確認のときでもあるような気がして、

そして、日々そのことに自己嫌悪をしながら生きつづけ、そして死の瞬間には、やはり最高にうつくしい自分をその手に届かないスクリーンにうつし出すのだろうとおもう。

きもちわるい話で、申し訳ないとおもうけど、わたしはただ鏡に映る自分のスカートと足をシルエットとしてみて、脳天をつきぬけるような、こころが、脈動をとおりこして、凍りつくような、気持ちが、快を通り越して、落ち着くような、感覚になるんです。

これはもしかしたら感じるを通り越して、感じないという状態なのかもしれないですね。

そうシルエットのスカートは黒であって、ストッキングはNEWサブリナプロポーションカルロだったので、なんとなくカラスと連想が一致したので、カラスの話題だったのだとおもう。
by roooo | 2005-04-01 20:49